No.0202
功を愛して人をも愛す
「冷たい」「他人に関心が無い」と言われることがあります。自分としてはそんなことは無い、と思っているのですが、そう言われる要因に思い当たらないこともありません。
キリスト教の家庭に生まれ、毎週日曜には教会のミサに参列し、その後日曜学校に出て、という環境で育ち、「汝の敵を愛せよ」というような教えを刷り込まれてきたので、博愛主義を良しと考えてしまい、身近な人を特別視するという考えが持てないのです。
(キリスト教徒が皆そうではないので、持って生まれた性質と合わさってそうなったと思われます)
相方と議論をしていても大抵、糾弾されている側の肩を持つような発言をするので、「何故抵抗する」と言われます。
私のつもりでは、どちらかの側に付くというのではなく、逆の視点から物事を見た方が多角的に見られるのではないかと考えているだけなのですが、確かに身近な人からすれば、常に自分の味方でいて欲しいだろうな、とは思います。
先日、別の人と話していて、やはりキリスト教の教えに起因すると思われるもう一つの要因に気付きました。
「罪を憎んで人を憎まず」。
孔子の教えにもある、この格言です。
人間は、生き延びる為に状況に応じて言動を変えます。
平常時、殺人は罪ですが、戦時下ではそれは正義となり得ます。
8月に上演した舞台「罪の滴り」がこの問題を正面から扱っていましたが(こちら①、②参照)、人は誰しも自分が潜在的には罪人であるという自覚を持たねばならないと思います。
「罪を憎んで人を憎まず」。
これは、逆のことも言えるのではないでしょうか。
罪の対義語は何でしょうか。
赦し?正義?徳?それとも太宰治の書いたように、罰?
「功罪」という言葉がありますので、一番近いのは「功」かも知れませんね。
「功」を辞書で引くと「立派な仕事、手柄、成果、結果、技術」などとあります。
分かりやすく「技」と言い換えても良いかと思います。
「芸術」と訳されるARTの語源が、自然と対峙する人工の「技」です。
素晴らしい芸術作品を生み出すアーティストの技は、勿論相応の弛みない努力の結果ではあるのですが、私はそれと同時に、神の、と言って語弊があるならば、自然の美が、その人を通じて現れているのではないかと思うのです。
ですから、その人が例え悪人と呼ばれるような人であっても、作品自体の価値は値引きされないと思います。
逆に、その人が素晴らしいことは間違いないけれども、その作品に寄与したのはその人のみの力ではない、と思うのです。
私の意見は、一般的ではないかも知れません。
けれども考えてみて下さい。
我々の大部分は、容色に優れた人を賞賛します。
その人が優れた外見を保つ為に如何に努力をしているにせよ、土台となる生まれ持った美しい容姿は、その人の努力とは無関係です。
にも拘らず我々がそれを褒め称えるのは、我々がそれを自然の美が現出したものと認め、価値を見出しているからではないでしょうか。
そういう訳で、私は「功を愛して人を愛さず」にいるので、冷たいと思われがちなのかな、と考えたのです。
とはいえ愛はキリスト教の教えの基本ですので、できれば愛する方が宜しいかと思います。
功を愛し、人をも愛する。常にそうありたいと望んでいます。

ランキング参加中。是非クリックお願いします!現在の順位も確認できます。



にほんブログ村