No.0210
人間の欲求と精神的進化
私たちが月に数回営業しているカフェバー
《哲学者の薔薇園》について、名前の由来を訊ねられることが度々あります。
これは錬金術の書物の名前で、ユングが「転移の心理学」という著書の中で、この中に登場する図版の解説を行なっています。
お店に集まる人々の間でよく交わされる話題は、やはり哲学であったり心理学であったりが多いです。他には文学・芸術、科学に魔術、歴史・・・政治や社会についてもたまに。
「マズローの欲求5段階説」を私は最近知ったのですが、以前に目にしたことのある説を思い出しました。
確かメドウズの「成長の限界」だったか、環境問題の関連書物を読み漁っていた時だと思いますが、人間の生活レベルと視野の広さが比例するというような説で、今日一日生き延びるのに精一杯というレベルでは半径5mくらいのことにしか注意を払えない。
1ヵ月、1年、10年を安泰に暮らせる余裕が出てくると、段々と住んでいる街、地方、国、というように関心の対象範囲が広まっていき、最も高い視野に到達すると、遠い未来に亘る、宇宙規模の出来事のことを心に掛けられるようになる、という話でした。
なるほどな、と思ったものです。
マズローの場合、人間はまず生理的欲求、次に安全欲求、そして社会的欲求(帰属欲求)、承認欲求(尊厳欲求)、自己実現欲求というように、順に満たされたいと思うとします。
この5段階の上に更にあるのが自己超越欲求で、この段階に達することができるのは人口の2%ほどだそうです。
先日《哲学者の薔薇園》で、この「マズローの欲求5段階説」の話になったのですが、日本社会全体でいうと承認欲求(尊厳欲求)から自己実現欲求に向かっているところではないか、という意見がありました。
戦時中はもちろん生理的欲求、安全欲求を満たすことで精一杯、戦後の国民一丸となって、というような社会的欲求(帰属欲求)の時代を経て、個人がそれぞれの場所で承認欲求(尊厳欲求)を確立してゆき、今や一億総活躍社会を目指すという訳です。
実際、多様性の認められる社会が確立されつつあり、一昔前に比べるとマイノリティは相当生き易くなっているのではないかと思います。
と、ここまで考えていてハタと立ち止まってしまいました。
そうは言っても、未だに劣悪な労働条件の中で最低限の生活に甘んじている人々や、社会の中で違和感や閉塞感を感じている人々は、現実に日本に存在しているのです。
私がアーティストやクリエーターの交流の場としてのサロンを作ろうとしたり、新たな流通の場を設けられないか、と試行錯誤しているのも、創作に携わる人達が生き難い社会だと思っているからではありませんか。
私の古物の師匠でもあるアーティストのマンタム氏は、この話題になった時、アーティストたるものセルフプロデュースができなくてはダメだ、社会的弱者として最初から権利を奪われているのと同列に論じることはできない、と言っていました。
その辺りにこの問題を解く鍵があるのかも知れません。
欲求の問題に立ち返ってみると、私の周囲にいる人々はもの凄いパワーやエネルギーの持ち主ばかりで、自分の目標に向かって着実に進んでいる人間が殆どです。
それらの人々に比べてどうしても私は物事に対する熱意が弱いな、と思わざるを得ません。
それは何故なのか、と考えた時、欠乏ということに思い至りました。
やはり《哲学者の薔薇園》での会話ですが、自分の外見を極限まで加工したり装飾したりして表現媒体としている人々は、元々自分の容姿にコンプレックスを持っている人々だ、というのです。
無いものを手に入れようとするのが人間の欲求ですから、それは当然なのかも知れません。
それを考えると、私には足りていないものというのが殆ど無いのです。(飽くまでも主観的には、ということです)
話が散漫になるので、詳しくは又の機会に書きますが、一生の望みを人生の1/4くらいの地点で手に入れてしまった状態です。
これではハングリー精神の生まれようがありません。
でも、もう一回りして考えると、私に足りていないものは「ハングリー精神」だと言える訳です。
ということで、これからハングリー精神を手に入れるべく切磋琢磨したいと思います。
なんだか、卵が先か鶏が先か、みたいな話になってしまいましたが、皆さんも自己実現に向けて頑張って下さいね!


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