No.0309
《哲学者の薔薇園》オカルティズム講座第十二回 「「呪物としての人形 形代を作る」レポート
今月で、1年間12回続いたオカルティズム講座がラストを迎えました。緊急事態宣言下での最終回はスピノールギャラリーでの開催がもはや不可能でしたので、4月17日(金)20:00~22:00、ツイキャス配信にて実施。
今までの配信で一番視聴者様が集まって下さいました。
実技パートでは和紙を用意して頂き、実際に形代を作って穢れを移したのですが、結構あっという間に終わりました。
そういえば、実技部分はいつも時間取るかな?と思って余裕を持たせてタイムテーブルを組むと、思いの外早く終わってしまう、ということが多いですね。
配信の録画がアーカイブにございますので、是非ご覧下さいませ。
[前半][後半]

それにしても、人形作家として最終回は形代作りを実施しようと、カリキュラムを組んだ当初から思っていたのですが、まさか本当に厄災を払う必要がある事態になろうとは・・・。
2クール目はしばらくスピノールギャラリーでのリアル開催は難しそうなので、オンラインで出来ないか考えてみます。
以下は当日お話した内容をざっくりと。
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★人形の歴史
古代においては、縄文時代の土偶、古墳時代の埴輪などは、家のお守りや、身分のある死者の副葬品としてが作られたと考えられる。
平安時代には「源氏物語」などの中に、「人形(ひとがた)」という身代わりについて記される。
3月はじめの巳の日に人間の形をした形代(かたしろ)や人形(ひとがた)を木や紙や草で作り、それで身体をなでたり息を吹きかけたりして身のけがれや災いを移し、川や海に流して子どもが無事に成長できるようお祈りした。
これが流し雛の由来であり、室町時代ごろに3月3日に定まってゆく。
「にんぎょう」と読まれるようになったのは、鎌倉時代くらいから。
「源氏物語」「枕草子」では、雛=ひいな についても書かれる。人形の代名詞。語源は「小さくて可愛い」。人間の雛形の意味。
「桃の節句」ともいうが、桃酒を飲んで厄払いする習慣は中国から来た。
桃は「陽の木」と呼ばれて陰気さを払うと言われる。
また、江戸中期には9月9日の重陽の節句に「後の雛」と呼ばれる雛祭りをするところもあった。
現在でも瀬戸内海や四国には行うところがある。
平安時代には疫病が流行ると、1m以上ある大きな人形「草人形」を作って道や県境などに置き、禍の霊を宿らせて遠方に捨てに行ったり川に流した。
形代は陰陽道から出ていて、神の代わりをする人間が、人形で代用されるようになった。
また、よりまし(尸童、依坐)が、こけしの原型だという座敷童になった。
さまざまな種類の人形も生み出された。
山車の上に載っている人形も、神霊を下ろす為の依代である。
木製の呪術用人形は、政敵を葬る為に用いられた。呪術的方法で怨敵の魂を人形に入れ込み、これを焼く、切る、釘を打つ、辻に埋めるなどした。藁人形の原型のようなもの。
呪文や九字を書いて効果を高めるようなこともした。
「なで物と云うは、是も陰陽師に祈祷を頼む時、陰陽師の方(かた)より紙にて人形を作り遣わすを取て、身を撫でて陰陽師の方へ送れば其人型を以って祈祷する事有り、さて後に河へ流す也」(『貞丈雑記』 ※江戸時代後期の有職故実書)
撫物は撫でることによって、その人の穢れをすっかり移し、それを川へ流す、焼くなどの処分をして、穢れを他方世界へ送り出す呪物のことである。「償物(あがもの)」ともいう。
未開社会の神話・呪術・信仰に関する集成的研究書である、ジェームズ・フレイザー『金枝篇』によれば、呪術には大別して2種類がある。
一つは「類感呪術」で、その原理は「類似は類似を呼ぶ」または「結果はその原因に似る」ということである。(類似の法則)。模倣呪術ともいえる。
もう一つは「感染呪術」で、その原理は「かつて互いに接触していたものは、物理的な接触の止んだ後までも、なお空間を隔てて相互的作用を継続する」(接触の法則)。
この二つを併せて「共感呪術」という(共感の法則)。
人形の形は類似、撫でるという行為は接触の法則に則っている。
天児(あまがつ)
「あまがつというものは小児の守りなり。練の絹にて人形を縫い綿を入れたるもの也。「ほうこ」もあまがつのこと也」(『貞丈雑記』)
天児は3歳くらいまでの幼児の守りとして、その枕もとに置いた。平安期の貴族家庭で盛んに用いられた。
T字型に組んだ竹の胴に、白絹(練絹)の丸い頭をつくり、目、鼻、口と髪を描き、衣裳をつけて飾り、幼児を襲う災いや汚れをこれに負わせる。
這子/婢子(ほう こ)
「白絹の四隅を縫い合わせて綿を入れ腹の部分でくけて胴にすると、四隅が手足となる。
目鼻口を描き、男の子のものは口を開かないように、女の子のは口を開いているように描く」(『御産之規式』 室町時代)
這子(ほう こ)は子どもが生まれた時に贈られる身代わり人形。頭には絹糸の黒髪を垂らし、金紙で束ねてある。
次第に庶民の間にも広まり、江戸時代には天児を男の子、這子を女の子に見立てて飾るようになり、男雛と女雛へ変化した。
室町時代に入ってからの這子は、子供がハイハイした形になる。
しばしば赤い色で作られたが、子供の恐ろしい流行病であった疱瘡(天然痘)の神、疱瘡神が赤い色を好み、這子につくと考えられた為である。
赤べこやさるぼぼも、疱瘡神除けの意味がある。
大祓(おおはらえ)とは、伊弉諾尊の禊祓を起源とし、中臣(なかとみ)の祓とも呼ばれる。
祓とは、天津罪・国津罪などの罪や穢れ、災厄などの不浄を取り除き、身を清めるために行う神事。
12月の大晦日に行う祓が「大祓」もしくは「年越しの大祓」、6月の大祓は「夏越(なごし)の大祓」と呼ばれている。
他に、天皇即位後の最初の新嘗祭である大嘗祭の前後や、疫病や災害の発生した時に臨時に執り行うこともある。
大祓詞(おおはらえのことば)は、大祓において穢れを落とすために唱えられていた言葉。日本で最も古い祓詞とも言われる。
形代に名前を書き、体の悪いところを撫でて、茅の輪くぐりを行い、人形を清流に流す。
茅の輪くぐりの由来は日本神話に遡る。
素戔嗚尊が宿を借りようとしたところ、裕福な弟の巨旦将来は断ったが、貧しい兄の蘇民将来はもてなした。
数年後、素戔嗚尊が再訪し、蘇民将来に茅で作った輪を腰に下げるよう教え、疫病を流行らせたので、茅の輪をつけていない者は皆滅んだ。
(『釈日本紀』(しゃくにほんぎ)。鎌倉時代末期の『日本書紀』の注釈書)
現在のような大きな茅の輪は、江戸時代頃から広まった。
無病息災を祈りながら茅の輪をくぐり、身を清める。
くぐり方は一般的には、茅の輪の前に立って軽く礼をした後、まず左回りに回る。
元の位置に戻りもう一度礼をして、右回りに回る。
もう一度霊をして、再度左回りに回った後、ご神前に進む。
日影丈吉によれば、東京では昭和30年代まで、12月になると氏神の社から氏子へ、世帯数だけの形代が配られ、それに家族の名前を書いて届けると、大晦日のどんど焼きの日で焼かれたという。
★人形(ひとがた)・形代(かたしろ)の作り方
人形1枚につき1名分。
氏名、年齢を数え年で書く。神社によっては、住所や年月日を書かせるところも。
誕生日を迎えている方は実年齢+1歳、誕生日を迎えていない方は実年齢+2歳。
書き方に決まりはないが、頭に年齢、体に名前、など。筆と墨が良いが、なければ消えないもので書く。
作った人形で、頭からつま先までの全身を撫でる。悪い部分があれば、重点的に。息を3回吹きかけて、重なった穢れを人形へ移す。
他人に触らせないよう気をつけ、燃やすか川に流す。(川に流したものが人の手に移らない環境であれば)
神社で入手した形代であれば、神社に返す。
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