No.0251
キリストとアンパンマン
カトリックの家庭に生まれ育った私は、実家にいる間は家族と共にほぼ毎週日曜、大船カトリック教会に通っていました。カトリックのミサでは、聖歌を歌ったり聖書の中の説話を朗読したり、神父様がそれについてお説教と呼ばれる講話を話したりします。
ミサの中心となるのは聖餐式と呼ばれる儀式で、ホスチアと呼ばれる小さくて薄い丸いパンとワインを、祝福を与えることでキリストの肉体と血とに変化させ、信者たちに分け与えます。
先日、現在所属している初台教会のミサに行きました。
その日の朗読は「五つのパンと二匹の魚」のお話でした。
イエス・キリストが集まった人々に説教をしていると、段々と人が増え、とうとう5千人もの人々が集まってしまいます。
日も暮れて、人々がお腹を空かせているのではと心配した弟子たちは、群集を解散させるようにイエスに言います。
するとイエスは、「あなたたちが皆に食事を与えなさい」と言うのです。
でも、彼らが持っているのは、僅かに五つのパンと二匹の魚だけ。
するとイエスは、群集を50人ずつのグループに分けて座らせ、そのパンと魚を祝福し、割いて皆に分け与えます。
その食べ物は全員の腹を満たし、余ったパン屑は12の籠にいっぱいになりました。
この朗読の後、神父様はおもむろに絵本を取り出し、「今日はこの絵本を読みますので、子供たちは集まって下さい」と仰いました。
その絵本は、お馴染み「アンパンマン」。
但し、一番初期の頃の絵柄です。随分古いものではないかしら。
私も子供の頃、「いちごえほん」という雑誌に掲載されていたアンパンマンの漫画を読んでいたことがありますが、その時はもう、今のアンパンマンの絵柄でした。
絵本のアンパンマンは砂漠で倒れている旅人や迷子になっている子供のところに飛んでいって、自分の顔を食べさせて力付けます。
やがて嵐になり、アンパンマンは煙突に真っ逆さまに落ちていきます。
しかし、そこはパン工場の煙突でした。パン屋のおじさんはもっと大きくてもっとおいしい、新しい顔をつけ、アンパンマンはすぐさままた困っている人を助けに飛び出していきます。
絵本の朗読が終わると神父様は「食べ物は食べてしまえば無くなります。でも、分けても無くならないのはなんでしょう?」と、子供たちに問いかけました。
「体!」「え?体をあげるの?」
答えは出てきません。
「無くならないのは、心です」
この「五つのパンと二匹の魚」のエピソードで、実際に人々に与えたのは物質的な食物ではなく、精神的な食物であった、とも言われます。
「人はパンのみにて生くるにあらず」というのも、そういう意味です。
「昔はミサの前夜から何も食べてはいけないことになっていました。今はもう少し緩くなって、一時間前から食べてはいけないということになっています」と神父様。
そういえば、そうだった。私はそんなことはすっかり忘れていました。
ミサは、キリストの体を皆で食べるという食事の儀式だから、その前に何かを食べたりしないのでしょう。
神父様はまた、「今はそれぞれ好きな時に食事を摂るようになり、家族皆で食卓を囲むというのが一般的ではなくなりましたが」という事も仰っていました。
食事をする、ということは、とても大切な儀式なんです。
いくら慌しい日常を送っていても、それを忘れてはいけない、と改めて思いました。
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